2025年9月17日(水) 12日目
頤和園(颐和园)
昨日は早めの夕食を済ませた後は、ホテルに戻ってさっさと布団に入ってしまいました。大分疲れていたのか、そのまま8時間近く爆睡し、目が覚めると朝4時を過ぎたところでした。懸案となっていた、ここ数日発症していた喉の痛みはほぼ無くなりました。
今日は丸一日、北京観光に費やすことができます。2016年に北京を初めて観光した時は、故宮博物院、万里の長城(慕田峪長城)、天壇といった定番の観光名所を回りました。また、北京随一の繁華街である「王府井」を散策しました。今日は、まだ訪問したことがない観光名所を中心に歩き回る予定でいたのですが、この日の朝まで候補を絞り切れていませんでした。今朝は早く起きれたこともあり、早くから営業している中国屈指の名園「頤和園(颐和园)」に行くことにしました。
頤和園は、北京中心部から北西に15kmほど離れた海淀区にあります。地下鉄が運行し始めたのを見計らい、6時過ぎにホテルを出て、地下鉄10号線⇒(海淀黄庄駅)⇒4号線と乗り継いで頤和園に向かいます。運賃は6元(約126円)と相変わらずの安さです。早朝にも関わらず、地下鉄は混雑していました。一応ギリギリ座ることができましたが、もっと余裕があると思っていたので想定外です。北京の朝は早く始まるのが良く分かりました。大半が職場や学校に向かう地元の方々のようで、私服で通勤(通学)している人が多く、スーツ姿の人はあまり見かけませんでした。約1時間で頤和園の最寄り駅「北宮門駅(北宫门站)」に到着です。
頤和園の主な入口は、正門の東宮門(东宫门)か裏門の北宮門(北宫门)です。rednote(小紅書)で調べると、頤和園の敷地は非常に広大なので、一方の門から入ってもう一方の門から出るのが一般的で、北宮門から入って東宮門から出るルートがオススメされていたので、これに従いました。
地上に出た後は、大通り「頤和園路(颐和园路)」を西に進み北宮門に向かいます。この辺りは、まだ人も車も本格的には動き出しておらず、静寂な空気に包まれていました。外は若干肌寒さを感じましたが、歩き回るには丁度良いぐらいです。
◆頤和園路(颐和园路)
■7:00 頤和園到着
北宮門には開園時刻となる7時ぴったりに到着しました。この時間に来て、果たして窓口は営業しているのか一抹の不安がありましたが、ちゃんと開いていました。WeChat以外でオンラインで購入する方法は、Trip.comやKlookなど複数の選択肢があったのですが、いずれも何かしらオプションが付いており、入場券「門票(门票)」のみを購入することができませんでした。
窓口では、入場券とコンビネーションチケットのどちらを購入するか聞かれるので、「門票(门票)」と言う必要があります。対応してくれた若い女性は、外国人慣れしており、英語も通じそうな雰囲気ではありました。入場券は30元(約630円)と良心的な料金設定になっています。この日までお腹一杯観光してきたので、入場券で見学できる範囲で十分という気分でした。
◆チケットオフィス
入場ゲートはどのレーンも×が表示されていたので、入場不可だと思い、その場で少し待機していたのですが、後から入って来たお客さんが何事もなく通過したのを確認して、後から続きました。ゲートの脇にはスタッフがいたので、表示の切り替えを忘れていただけのようです。
◆入場ゲート(北宮門)
頤和園(颐和园)は、1750年、清朝6代皇帝の乾隆帝が、母の崇慶皇太后(崇庆皇太后)の還暦を祝って造営した皇室庭園です。当時は「清漪園」と呼ばれていました。昆明湖と万寿山を基調とし、杭州西湖の景観を模して造園した自然景観庭園であり、江南庭園の技術と思想が採り入れられています。1860年、アロー戦争で英仏連合軍により破壊されてしまいました。第11代皇帝の光緒帝の時代、時の権力者「西太后」により再建され、「頤養沖和(穏やかさを養う)」という言葉から取って頤和園と名付けられました。
万寿山の北側は「后山」と呼ばれるエリアで、入場ゲートを抜けた先は川のように細長い「后湖」があります。乾隆帝は、6回にわたる大規模な南巡を行い、蘇州の街を大変気に入ったため、后湖の両岸には蘇州の街並みを再現しました。「蘇州街」と呼ばれます。
后湖に掛かるアーチ型の石橋「頤和園長橋(颐和园长桥)」を渡ると、三門四柱七楼様式の牌楼「慈福牌楼」が立っています。清の乾隆帝の時代、1736~1795年に建てられました。牌楼の北側には「慈福」、南側には「慧因」と刻まれています。この地にはかつて北、東、西に3つの牌楼が立っていましたが、現在は北側の慈福牌楼の本体のみが残っています。
◆慈福牌楼
牌楼をくぐり、しばらく歩くと見慣れない様式の大きな建物が眼前に現れます。万寿山の背後、后山の中核的な建築群であり、「四大部洲」と言います。チベットのサムエー寺院の配置を模倣して建てられた、漢チベット様式の仏教建築群となります。香岩宗印之閣(香岩宗印之阁)を中心とする建築群は、チベット仏教の曼荼羅様式に基づいて配置されており、仏教の宇宙観である須弥山と四大部洲を象徴しています。1860年に英仏連合軍の攻撃により焼失した後、光緒年間(光緒帝の時代)に再建されました。乾隆帝はチベット仏教を保護することで、満州族とモンゴル・チベットとの関係強化を図りました。これらの建築群は、乾隆帝の宗教的・政治的を反映していると言えます。
◆四大部洲
◆香岩宗印之閣(香岩宗印之阁)
香岩宗印之閣前にある広場からは、緑豊かな景観が広がります。
◆香岩宗印之閣からの景観
四大部洲の脇には遊歩道が設けられており、傾斜のあるハイキングコースのようになっていました。遊歩道を登って万寿山の頂上に到達すると、間もなくして「智慧海」という建物が見えてきます。建物全体を撮影できるポイントが無く、近くからの景観となっています。
チベット仏教様式の建築物で、梁のないレンガと石造りの構造物であることから、「無梁殿」とも呼ばれています。智慧海という名前は、仏教用語に由来し「海のように深く、広大な仏の智慧」という意味を持ちます。外装は主に黄色と緑の瑠璃瓦で覆われており、紫と青の釉薬瓦が点在しています。また、表面には千体を超える仏像がはめ込まれており、建物内部には観音菩薩像が安置されているそうです。
◆智慧海
緩やかな斜面を下って西側に向かいます。
◆万寿山の景観
斜面を下りきったところは后湖と昆明湖を接続する南北に流れる水路に位置し、「宿雲檐城関」という建物がありました。別名「貝闕(贝阙)」と呼ばれます。建物の上部には元々楼閣があり、中には関羽の塑像が奉納されていました。1860年に英仏連合軍に略奪されましたが、光緒年間に亭式建築に改築され、内部には関帝の位牌が奉納されました。
◆宿雲檐城関(宿云檐城关)
周囲は船着き場や「小西冷(小西泠)」と呼ばれる縦に長い小島があり、景観良く整備されていました。この辺りまで来ると、観光客が一気に増えて賑やかとなり、船着き場には遊覧船に乗った団体のツアー客が次から次へと上陸してきました。
◆船着き場
◆小西冷(小西泠)
小西冷と水路西岸は「万字河」と呼ばれる小さな川で隔てられており、両者は「荇橋(荇桥)」で結ばれています。中央には船が通行できる洞を備えた、白大理石造りの四柱三楼式のアーチ橋です。
◆荇橋(荇桥)
荇橋のすぐ近くには、「清晏舫」と呼ばれる石造りの船があります。当初は石舫と呼ばれ、乾隆帝の時代、1755年に建てられたものです。船体は巨石から掘り出されたもので、元々は長さ36mの中国様式の船形建築だったものの、1860年の英仏連合軍によって焼失しました。光緒年間に洋風の船形建造物に再建され、「船清海晏(河は清く海は澄む)」という意味から、現在の名前が名付けられました。
◆清晏舫
ここからは、昆明湖の北岸一帯、「湖岸区」と呼ばれるエリアとなります。一番の見どころは何といっても北岸に沿って建てられている長い回廊です。「長廊(长廊)」と呼ばれ、長さは728m、273の柱間と548本の柱があります。1750年に創建され、1860年に英仏連合軍により焼失、1888年に再建されました。梁や垂木一つ一つに14,000点以上の絵画が飾られており、壮大で色彩豊かな景観を創出しています。絵画は山水画、花鳥画、中国の四大古典小説の画面などが描かれています。
回廊からは美しい昆明湖の景観が広がります。8時前にも関わらず、既に大勢の観光客で賑わっていました。
◆長廊(长廊)
◆昆明湖
長い回廊には、テラスや東屋などが建てられています。
◆魚藻軒(鱼藻轩)
しばらく真っすぐの回廊が続いた後、湖岸に沿って曲線を描きます。
◆長廊(长廊)
長廊の中央には、「排雲門(排云门)」があります。門の前には湖岸に面した大きな牌楼(雲輝玉宇牌楼(云辉玉宇牌楼))が建てられています。
排雲門の先には、「排雲殿(排云殿)」や「仏香閣(佛香阁)」といった頤和園の中核となる建造物があるのですが、別途チケットを購入する必要があります。万寿山の中腹に位置する排雲殿は、西太后が自身の誕生日を祝うために建てたものです。元々は乾隆帝が建立した「大報恩延寿寺」がありましたが、英仏連合軍により焼失しています。
◆排雲門(排云门)
◆雲輝玉宇牌楼(云辉玉宇牌楼)
排雲門の東側に行ってみると、遠目ですが頤和園のシンボルにもなっている「仏香閣(佛香阁)」が見えました。周囲は紫藤が咲き乱れており、仏香閣と組み合わさって美しい景観を形作っていました。仏香閣は三層の八角形で、高さは36m、高さ21mの基壇の上に建てられています。
仏香閣については、これで十分満足したので、排雲殿の方には行かずそのまま東に向かいます。
◆仏香閣(佛香阁)
長廊の東端には「邀月門」があります。東宮門側からくる場合は、この門が開始点となるようです。
◆邀月門(邀月门)
邀月門の東側は「宮殿区」と呼ばれるエリアです。仁寿殿を中心に、皇帝が政務を行い、西太后が政治を執り行った場所で、頤和園の心臓部となります。
楽寿堂(乐寿堂)は西太后が起居した場所です。元々、乾隆帝の時代、乾隆帝の母の還暦祝いとして1750年に創建されたもので、連合国軍により焼失後、西太后が修復、拡張しました。前後に2つの中庭、東西にそれぞれ脇庭を持つ四合院様式の建物となっています。
◆楽寿堂(乐寿堂)
この辺りで一番印象に残っているのは、建物の前にあった「青芝岫」という巨大な石です。史料によると、明代の官僚である米万鐘(米万钟)が北京の房山で、この青くて潤いがあり、まるで霊芝のような巨石を発見したと言われています。この石は、米氏勺園に運ぶ途中で資金不足により野ざらしされていたものを、後に乾隆帝が莫大な費用をかけてこちらに移転し、「青芝岫」と名付けました。中国最大の庭園石となります。
◆青芝岫
楽寿堂前の中庭は非常に混雑していました。多くの観光客は東宮門から入って来ているようで、私は逆進行しているので、進めば進むほど人の数が増えている印象です。
◆中庭
「徳和園」は有料だったので、門の外から見るに留めます。乾隆帝の時代には「春堂」があった場所で、1891年に西太后が観劇のための劇場として再建しました。大戯楼(大戏楼)、頤楽殿(颐乐殿)、慶善堂(庆善堂)など24の建物から構成されます。3階建ての大戯楼は、高さ21m、幅17m、7つの中庭、井戸、水井戸を備え、特殊な舞台装置を用いて演者の昇降や特殊効果を実現しています。
◆徳和園(德和园)
皇帝が政務を執っていた建物が「仁寿殿」です。乾隆帝の時代、1750年に建設が始まり、元々は「勤政殿」と呼ばれていました。英仏連合軍により焼失しましたが、光緒年間に再建され、『論語』の「仁者寿(仁者は長生き)」の言葉に基づいて、仁寿殿と改名しました。以降、西太后と光緒帝が頤和園滞在中に政務を行い、祝賀を受け、外国の使節と面会する場所として利用されました。
◆仁寿殿
玉瀾堂(玉澜堂)は乾隆帝の時代、1750年に創建され、元々は四方に通じる連結する殿堂でした。英仏連合軍により焼失後は、光緒年間に再建され、光緒皇帝の寝室として使用されました。1898年の戊戌の政変の失敗後、西太后は光緒皇帝をこの場所に幽閉しました。
◆玉瀾堂(玉澜堂)
昆明湖東岸からの景観は良く、万寿山の中腹にそびえ立つ仏香閣がひと際目立ちます。
◆仏香閣(佛香阁)
すぐ近くには突き出した小島があり、小島は湖岸と橋で結ばれていて、島には「知春亭」という東屋が建てられています。
◆知春亭
玉瀾堂の南には、「十七孔橋(十七孔桥)」や「銅牛(铜牛)」、「南湖島(南湖岛)」といった見どころが残っていたのですが、ここからさらに片道約1km、戻りも考えると2km以上歩く必要があったので、あまり無理をしたくなかったので見送りました。
頤和園からの戻りは、正門である「東宮門(东宫门)」から出て、地下鉄駅「西苑駅」に向かいます。
東宮門の扁額に刻まれた「頤和園」の3文字は光緒帝の直筆です。中央の門は、西太后、皇帝、皇后の専用の御路で、両側の門は王族や大臣の通行に用いられました。
◆東宮門(东宫门)
以上で、頤和園の観光は終了です。入場券で観光できるエリアだけ回って約1時間半掛かりました。
東宮門からは、地下鉄4号線の「西苑駅」まで約1km歩く必要がありました。途中、「同慶街(同庆街)」という真っすぐに東西に伸びた大通りがありました。通りにはいくつものバス停があり、多くの路線バスやシャトルバスなどの発着地点となっていました。
◆涵虚牌楼
歩き疲れたので、西苑駅前にあったカフェで休憩して行こうと思ったのですが、一番安いコーヒーでも30元(約630円)近くとなかなかの料金設定でした。通常であれば、高いと感じながらも流れに任せて注文してしまったと思うのですが、たまたま、店員さんがカウンターにいなかったこともあり、何事もなかったかのように退散し、すぐ側にあったマクドナルド(以下マックと表記)の方へ向かいます。こちらではコーヒーとハッシュドポテトのセットが17.5元(約370円)とお安く利用できました。個人的にはマックのコーヒーはリーズナブルで、十分満足できるレベルにあるんですよね。ちなみに、中国でマックを利用したのは初めてでしたが、液晶ディスプレイによるセルフ注文から決済まで迷うことなく完了しました。決済後は、番号が呼ばれたら注文したものを取りに行くだけです。店内を見回すと、頤和園から近い場所ということもあり、外国人のお客さんの姿が目立ちました。
北京中軸線
これまでの投稿の中で、何度か「中軸線」という言葉を用いてきました。都市の中心を南北(東西)に貫く直線的な軸のことを指すのですが、中国では古来数千年にわたり、北魏の洛陽、随・唐の長安、北宋の開封などの古都は、この中軸線を基に発展してきました。中華文明における「中を以て尊と為す」という伝統的概念から来ており、皇帝の権威と中華の理想的な統治構造を象徴しています。
中でも北京の中軸線は、元の初代皇帝フビライ・ハンに始まり、以降、元~清代にわたる歴代皇帝らが、足掛け7世紀という時間を掛けて造営してきた、中心軸の集大成ともいえる存在です。
南北約7.8kmの北京中心軸上には、北は鐘楼・鼓楼に始まり、故宮、天安門、天壇などを経て、南には永定門といった施設が配置されています。中心軸は単に物理的な軸線だけでなく、約700年にわたる歴史的連続性を備え、文化的・精神的価値が凝縮されたものであり、これを理解することでより深く北京という都市を楽しむことができます。なお、この北京中軸線ですが、2024年には世界文化遺産に登録されました。
前回、北京を観光した時は、中心軸という言葉自体知らないまま、故宮や天壇などの観光名所を巡っていたわけですが、機会があれば今一度、中心軸というテーマに沿って観光名所を回りたいと考えていました。頤和園の観光を終えた今、まだ時間に余裕があったこともあり、この中心軸に沿って、北から順番に施設を見て行きたいと思います。移動手段については、中心軸の観光名所を回るシャトルバスが運営されていますが、地下鉄8号線や5路バスなどを利用することでも効率的に移動できます。
まずは、「鐘楼(钟楼)」と「鼓楼」からです。地下鉄4号線⇒(海淀黄庄駅)⇒10号線⇒(北土城駅)⇒8号線を乗り継いで「什刹海駅」まで移動します(約40分)。運賃は5元(約105円)でした。
地上に出ると、中軸線上に位置する大通り「地安門外大街(地安门外大街)」があり、昔ながらの北京の雰囲気が残る商店街が形成されています。北に向かって約300m歩くと、正面に「鼓楼」が見えてきました。元の時代、1272年に創建されました。元々は「斉政楼」と呼ばれ、現在の鼓楼は明代に再建されたもので、その後も何度か修復が行われています。
■9:50 鼓楼・鐘楼到着
◆鼓楼
鼓楼からさらに少し北に進むと「鐘楼(钟楼)」があります。鼓楼と鐘楼の間は「鐘鼓楼文化広場(钟鼓楼文化广场)」が整備されていました。
鐘楼(钟楼)の創建は、明代の1420年で、現在の鐘楼は清代に再建されたものです。
鼓楼と鐘楼は、元、明、清の3代にわたり、北京の時報を担っていました。鐘楼は日中に鐘を鳴らして時を知らせる役目を、鼓楼は夜中に太鼓を叩いて時を知らせる役目を担っていました。
◆鐘楼(钟楼)
◆鐘鼓楼文化広場(钟鼓楼文化广场)
地安門外大街に戻った後は、バス停「鼓楼」から5路バスで南下し天安門広場の方へ向かいます。5路バスは中軸線に沿って南北に走る路線で、観光する上で大変便利です。約10分間隔で運行されているので、待っているとすぐバスはやって来たのですが、車内は乗客で溢れていました。何とか押しこくって乗車したものの、事前にセットしておいた「北京一卡通电子卡」だとQR決済が通らず焦ります。運よくすぐ近くに乗務員さんがいたので、現金で払おうとしたら、要らないよという仕草で見逃してくれました。後から分かったのですが、「北京一卡通电子卡」は郊外を走る路線用のミニプログラムで、「北京公交乘车码」の方をダウンロードしておくべきだったようです。
南下すると、途中に「万寧橋(万宁桥)」があったのですが、予習不足が祟り、この時には頭の片隅にも無く素通りしてしまいました。元代に建てられた、中軸線上で最古の歴史遺産です。
続いて、景山公園(景山公园)と故宮博物院(以下故宮と表記)は以前訪問しているので、これらについても素通りです。故宮については今更説明は不要かと思いますが、中心軸の中核を成す施設で、かつては「紫禁城」と呼ばれた明・清代の皇帝の王室宮殿となります。景山公園は、故宮が一望できる絶好のビュースポットであり、こちらにはもう1回ぐらい行っても良い気分だったのですが、このギュウギュウ詰めのバスにもう1回乗るのは嫌だったので、降車することなく通り過ぎます。中国でも屈指の観光名所である故宮の周辺は凄まじい数の観光客でごった返していました。
次の見どころは、「天安門広場(天安门广场)」ですが、こちらは入場するためには予約が必要です。また、入場する場所、時間帯が厳密に決められており、荷物検査が厳しいことでも有名です。WeChatが使えないことは既に言及した通りですが、一週間前にダメ元で天安門広場の予約を試したところ何故が上手くいってしまいました。厳密には、WeChatが使えないのではなく機能制限だったので、ミニプログラムの造り次第では機能制限に引っ掛からないケースもあるようです。WeChatにしろAlipayにしろ、この2つはアプリと呼ぶには規模が大きすぎて、使えば使うほど疑問も増えていきます。
というわけで、事前に天安門広場に入場する準備はしておいたのですが、前日になって、時間が拘束されるのが嫌になったのでキャンセルしてしまいました。よって、こちらも素通りです。バスの中から、一瞬でも天安門広場を見れることを期待していたのですが、思った以上に離れていたところを走っていたので駄目でした。
天安門広場の南西にあるバス停「前門西(前门西)」で降りて、「正陽門(正阳门)」に向かいます。天安門広場への入場口は南側にもあるのですが、遠目にも厳重に管理されているのが伺えました。
■10:40 正陽門到着
天安門広場の南端に位置する正陽門(正阳门)は、一般的に「前門(前门)」とも呼ばれます。明の永楽帝の時代、1419年に建設が始まりました。1437年には「城楼」、「箭楼」および「瓮城」の建設が始まり、1439年に完成、元々付けられていた「麗正門」という名前は「正陽門」に改められました。北京にあった城壁や城門のほとんどが壊された中、唯一「城楼」と「箭楼」の状態が完全に保存されている城門となります。城門の高さは42m、奥行は24mとなります。
◆正陽門(正阳门)
正陽門の南には、明の時代から続く歴史的な通り「前門大街」が続きます。この辺りで昼食にする想定でいたのですが、通りの出入口で公安が身分証のチェックをしていました。この光景を見て、一気に入る気が失せたため、さっさと地下鉄駅「前門駅(前门站)」に向かいました。旅行も最終盤になると、とにかく面倒なのが嫌になってくるんですよね。
◆前門大街(前门大街)
ここから南に行くと「天壇」という非常に有名な観光名所があるのですが、こちらは訪問済みなので今回はパスします。天壇は、明、清代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った場所です。
最後に中軸線南端に位置する「永定門(永定门)」に向かいます。地下鉄8号線の「前門駅(前门站)」から乗り換えなしで「永定門外駅(永定门外站)」に移動できます。運賃は3元(約63円)です。
約10分で永定門外駅に到着、駅構内は閑散としていました。地上に上がるまでの導線が非常に長く、何回かエスカレーターを乗り継ぐ必要がありました。駅周辺も観光客の姿はほぼ無く、中心軸上の大通り「永定門外大街(永定门外大街)」沿いにはホテルやレストランが並んでいましたが、繁盛している様子がありません。地下鉄の出口から永定門は少し離れており、1kmほど歩く必要があります。
■11:30 永定門到着
中心軸の南端に位置する「永定門(永定门)」は、「正陽外門(正阳外门)」とも呼ばれ、「永安門」、「永昌門」といった名称もあります。「永遠の安定」の意味があります。明の時代、1553年に建造され、清の乾隆帝の時代には、高さ26mに引き上げられました。
◆永定門(永定门)
一応、一通り見たい施設は見終わったため、大分疲れたこともあり、真っすぐホテルに戻りました。地下鉄14号線⇒(景风门站)⇒19号線と乗り継ぎ草橋駅に到着です。運賃は3元(約63円)でした。できれば、このままホテル近くのレストランか食堂で昼食にしようと思っていたのですが、お昼の時間帯になってしまっていたため、どこのお店も混雑していました。仕方ないため、今日2回目のマックで適当に見繕ってホテルに戻ります。
晋百碗刀削面
夕方までホテルで休憩した後は、もう観光する意欲は無くなっていたので、この旅行最後の夕食に出かけます。ホテル近くにある「晋百碗刀削面」という刀削麺のお店があり、お昼に覗いた時は、えらい繁盛していて退散したのですが、この時間に再チャレンジしてみました。山西省滞在時に何度か刀削麺のお店に入ったにも関わらず、北京にきてもまた刀削麺とは、我ながら何をしているのか良く分からず苦笑を禁じえません。
◆お店の外観
店内は如何にも中国の大衆食堂という雰囲気で、安心感があります。地元のお客さんは皆さんカウンターで口頭により注文していましたが、QRコードからの注文もできたので、私はスマートフォンからお馴染みの手順で注文しました。麺料理を中心にメニューは多く、一品料理やご飯ものもありました。あまりお腹が空いていなかったこともあり、スタンダードな「土猪肉刀削面」のみ注文しました。料金は16元(約340円)でした。
待つこと数分で料理が運ばれてきました。小太りの女性が対応してくれたのですが、非常に元気が良くて愛想も良く、外国人でも利用しやすい印象を受けました。刀削麺自体は至って普通のもので、可も無く不可もなくというのが正直な感想ですが、コストパフォーマンスは良いので簡単に食事を取りたい時にはオススメできます。
◆お店の中
◆土猪肉刀削面




















































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